golden-luckyの日記

ツイッターより長くなるやつ

『Engineers in VOYAGE』の「ITエンジニア本大賞」受賞に寄せて

本って「紙に情報を印字して束ねたもの」っていう点ではどれも見た目が似ていて、そのため「本」という単一の群が存在するかのように扱われがちな傾向があると思う。 でも、とくに商品として見ると、本はジャンルごとにぜんぜん別物だ。 ジャンルごとに「購入しよう」という意思をもって本を見る人、つまり「潜在読者」が違うから、作り方も売り方もまったく変わってくる。

それでも「紙に情報を印字して束ねたもの」が一つの市場で扱われているのは、やはり「流通させやすいから」っていう側面が大きいんだろうな。 というか、流通のために「紙に情報を印字して束ねる」という形に情報を押し込めているといっても過言ではない。 まあ、もちろんこれは過言であって、情報を人間が扱いやすい形にしたものを基準にして流通を考えた結果が現在だから、現在はそういうものに適した流通になっているだけなんだろうけれど。

自分たちが「紙に情報を印字して束ねたもの」を都合よく同一視して商売しているのだという意識は大切だと思う。 どんなに便利であっても、流通のために「紙に情報を印字して束ねたもの」を単一の商品として扱うのが「雑」であることには、お仕事として本を扱っている立場としては自覚的でありたいということだ。 でも、実際にはこの点を曖昧にしたまま、本や出版について語られていることがけっこう多い気がする。 もっとも、とくにプロの編集者みたいな人が「本」を語るときって、それはだいたいエンタメや文芸というジャンルであり、その意味では曖昧さはないって言ってもいいのかもしれない。

IT系の本が評価を受ける機会としてのITエンジニア本大賞

さて、ITエンジニア本大賞の話である。 日本語圏において、情報通信技術に携わっている人を主な対象とした「紙に情報を印字して束ねたもの」は、対象が情報通信技術ということもあって、ブログとかSNSでの書評や紹介という形での評価を受けることが多い。 そんななかで、このITエンジニア本賞は評価の場としてユニークな存在だと思う。

これは余談だけど、英語圏では同ジャンルを対象とした賞としてJolt Awardsというのがある。いや、あった。2014年まで存在した月刊誌 "Dr. Dobb's Journal" の企画だったんだけど、そのオンライン化と更新停止とともにJolt Awards 2015をもって終了してしまっていた。

また、賞とは異なるものの、ジュンク堂池袋本店では毎年1月に「新春座談会 このコンピュータ書がすごい!」というトークセッションが開催されていた。同店における前年の年間実売数ランキングをベースとして、達人出版会の高橋さんが書籍の紹介をするというイベントで、こちらも今はなくなってしまったけれど、ちょっとしたお祭りとして楽しかったし、同店のランキングと合わせてこのジャンルの本の評価の場として機能していたと思う。

もうひとつ、このジャンルの本を対象とした有名な賞としては、大川出版賞があるか。 財団的なところが制定している賞はどの界隈にもある。 前の会社で他部署の本がときどき受賞してたので、存在は知っているんだけど、過去の受賞をみても方向性がよくわからなかったので特にコメントはありません。

その他、商業的な本の評価としては、口コミや賞よりも「何部売れた」とか「何刷した」とか「オンライン書店でランキングがいくつになった」といった基準のほうがわかりやすいという話もある。 だが、これらは見かけほどにわかりやすくはない。 情報通信技術というジャンルに絞ってさえ、その内部には技術分野としてだけでなく読み手の達成度などに応じた複雑なセクターが無数にあり、それぞれに対象読者の傾向は違う。 「何かのきっかけて売れた本だけがますます売れる」という単純だが揺るがない現実もある。 そもそも、うちみたいな大きな取次との直接取引がなくて店頭で気軽に手にとれない出版社の本と、新刊はどんな内容であれいったんは全国の書店に行くという出版社の本とでは、刷数の考え方もぜんぜん異なる。

そのような中にあって、ITエンジニア本大賞という存在は、このジャンルの「紙に情報を印字して束ねたもの」を評価する場としてわりと唯一無二であり、それゆえに貴重なイベントだと個人的には思う。 前述した「ジャンル内における無数のセクター」がすべて対象なので粒度が荒いとか、投票により大賞を決定することで未読の人からの期待感が反映されてしまうとか、そういう難点はあるけれど、そういうアンバランスさがあるのはどんな賞でも似たり寄ったりでしょう。

ITエンジニア本大賞はインディーズ出版社には無理っぽかった

とはいえ、自分はITエンジニア本大賞には縁のない編集者なんだろうなあと勝手に思っていた。 過去に一回、『新装版リファクタリング』で審査員特別賞をいただいたことがあるものの、このときはそこそこまあまあな大きさの出版社にいたからで、もう本賞にかかわれる機会はこないだろうなと思っていた。

そんなふうに思っていたのは、ITエンジニア本大賞の選考プロセスに理由がある。

ITエンジニア本大賞では、まず賞のウェブサイトから本のISBNをフォームに指定することで自分の推し本をなんでも投稿できるんだけど、ふつうISBNなんて覚えていませんよね。 そこで、実際の投稿の大部分は、この投票ページにあらかじめ一例として掲載されている50冊程度の「参考本」のなかから選ばれているものと推測できる。 まずこの50冊程度の参考本の一冊に選ばれないと、その後の受賞プロセスに残れる可能性はとても低い。 つまり、「技術的には任意の本に対して投票可能だけど、事実上は投票ページの本が選考対象」という実態がある。

ここで当社にとって難関なのは、この参考本が審査員や事務局の推薦と年間の書店での実売データに基づいて決まることだ。 うちのような「書店であまり流通していない」ような出版社の本だと、書店での実売がないから、そもそも選定されるチャンスが限りなく低い。 まずスタートラインに立つのが原理的に難しいのである。

にもかかわらず、2021年のITエンジニア本大賞の告知ページでは、ラムダノートの『Engineers in VOYAGE』が参考本の一冊に含まれていた。

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「ITエンジニア本大賞2021」のWeb投票画面から

このときの喜びをわかっていただけるでしょうか?

まさかのエントリー、そしてノミネート、そして大賞受賞

実をいうと、『Engineers in VOYAGE』の監修であるVOYAGEの小賀さんから、「デブサミで毎年やってる技術書大賞をとりたい!」というお話をされたことがあった。 そのときは上記のような事情から、「あの賞は従来型の営業や流通にパワーをさけない出版社だとノミネートにすら手が届かないのが実情なんですよ」と苦しい気持ちでお返事した。 それが、まさかの第一関門突破である。

だが、これはスタートラインに過ぎない。 ここから投票数でベスト10に残り、さらにその上位3冊がデブサミで開催されるプレゼン大会を経て、はじめて大賞が選ばれる。

Web投票のページを見た人のITエンジニアのなかには、「ほかの本は書店で見たことあるけど、これは見たことないな」という人も少なからずいたはずだ。 実際、投票した人によるツイートを検索しても、本書の名前はそれほど目立っている印象がない。 正直なところ、編者の和田さんから「過去に自分の本は二回までベスト10に残ったけど、プレゼン大会に勝ち進んだことがないので、三度目の正直で残りたい」という思いをお聞きしたときも、「今回は弊社の力が及ばずたぶんベスト10もギリギリです、すみません」という心境だった。

ところが、なんとベスト10に入り、さらにプレゼン大会への進出も決まってしまう(オンラインで投票していただいた皆様、本当にありがとうございます!)。 当初ツイートが少なく見えたのは、この本だけISBNから名前を解決する実装がおかしかったからかもしれない。 個人的には、ベスト10に残ったことのうれしさもさることながら、「プレゼン大会に出る」という和田さんの夢がかなったことによる安堵が大きかった。

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ベスト10に選ばれた!

しかし、和田さんは「プレゼン大会に出る」で夢を終わらせるような人ではなかった。 自分もプレゼンを生で聞いていたわけだけれども、この本の読みどころを伝える圧倒的なオンラインプレゼン。 端的にいって「お、面白そう、読んでみたい」と思わせる生々しさ。

そして大賞受賞である

エンジニアだからこそ楽しめるエンタメの本

今回の受賞は、ちょっと素直に喜んでいいのかわからないというレベルで個人的にうれしい。 単純に評価されてうれしいという以上に、受賞を契機にした露出によって、あきらめていた層にまでリーチできるかもしれないのがうれしい。

この本は、当社の他の本と違い、特定の要素技術を体系的に解説する本ではない。 ソフトウェアを利用した事業を営む人と、そのためのソフトウェアを作る人とを結ぶ生々しい物語を、主に後者の視点から描いた本だ。 エンジニアだからこそ楽しめるという意味で、デマルコのある種の本のように、エンタメとしての魅力がある(フィクションではなくノンフィクションという違いはあるけれど)。

問題は、エンタメの本は業務上ののっぴきならない必要性にアピールするわけではないので、「露出してなんぼ」が現実であるという点にある。 実店舗で大量に流通して露出しなければ、本書のようなエンタメ要素を持つ本を読んでくれる人に届きにくい。 しかし、露出させて売るのは、どう考えても小さな出版社の営業力では無理だ。

そもそも小さな出版社には「露出」が難しい。 「書店にいつも自社の本が置いてある」という状態は、出版社から本を出すアドバンテージのひとつである。 小さな出版社にはそれがないから、通常はその状態を作るところからのスタートになるんだけど、うちはそういう戦略はとらなかった(とれなかった)。 だから、こういう本には弱いと思っていた。

それでも、いろんな人の力でそういう本を発行し、たくさんの幸運と応援によって賞という形で評価をいただけた。

  • 「面白い本だがうちで出してちゃんと評価されるんだろうか」という不安まじりで発行した本が賞という形で評価されたことの単純なうれしさ
  • メジャーレーベルじゃないからってなかば諦めていた場での評価が得られたことのうれしさ

これが今回の受賞で個人的にうれしかったポイントだと思う。 本書をここまでもってきていただいたみなさん、本当にありがとうございます。

もっとたくさんの人に手に取ってほしい

この本は、ITエンジニア本大賞を受賞してうれしい、で終わってほしくない。 受賞はしたものの、当社の流通経路が増えたわけではないから、とつぜん書店に山積みされるようなことにはなっていない(はず)。 だって、ぼくが書店をやっていたら、インディーズ出版社の本をITエンジニア本大賞だからっていきなり大量に仕入れるようなリスクはとらないだろうから。

でも、コンピュータの専門棚がそれなりに動くような書店であれば、本書に限らず、うちの本はそれなりに回転すると思います。 ぜひ下記のページを見ていただき、可能そうなら仕入れを検討してみてください。 比較的すぐに売れると思うのは、2021年1月の新刊『Webブラウザセキュリティ』と、それとよく似たカバーの『Goならわかるシステムプログラミング』および『みんなのデータ構造』あたりです。

www.lambdanote.com

そして一言、「ラムダノートの本、売ってるよ」とTwitterでつぶやいてもらえれば、全力で反応いたします。