LLMのおかげで滑らかな自然言語をコンピューターで気軽に使えるようになった。ウェブを中心に、生成AIで出力された(とおぼしき)文章を見かける機会も増えた。これからもっと増えるだろう。特にコンピューター技術の解説という分野では、生成AIの出力がそのままコンテンツとして公開されていることも多い。ウェブだけではなく、書籍のようなオールドメディアでも、すでに生成AIが下書きや校正に使われている。もしかしたら、さらにアグレッシブな使い方がまかり通っているかもしれない。
生成AIがあれば、もう技術書などいらないような気もする。誰かが生成AIで解説コンテンツを作る必要すらないだろう。知らない技術が出てきたら、その場でAIチャットに解説してもらえばいい。誰がAI時代にコンピューター技術書を購入して読むんだ?
この疑問には、いまのところ否定的な反応(つまり「本は大切だよ!」という意見)が多いように思う。いわく、AIチャットの回答は信用できないから何らかの形でこれからも技術解説コンテンツの価値はある。いわく、生成AIは表面的な説明文は作れるが、それが妥当な説明である保証はないから、著者が責任をもって構成して読者がつまずくポイントを見越して書かれたコンテンツが重要になる。いわく、そもそも知らない技術があることに気が付けなければ、AIチャットに質問することさえできないではないか。
実際、LLMの解説書や、AIエージェントの使い方の本などは、それなりの点数が出ていて、どれも売れているように見える。それこそAIチャットに聞けば済むような技術について、有料の解説がこれだけ求められているのだとしたら、まだまだコンピューター技術書がAIチャットで代替されることはないような気もしてくる。やはりAI時代でもコンピューター技術書には一定の需要があるのだ。
いや、本当にそうか?
LLMが得意なのは文章の生成よりも読解
これは技術書だけの話ではなく、文章だけの話でもないのだが、生成AIとコンテンツという話題では「コンテンツを誰でも作れるようになった」という観点での議論が多いように感じている。誰でも作れるようになったので価値がない、いや、誰でも作れるコンテンツは品質が低いのできちんと作られたものには依然として価値がある。だけど個人的には、生成AIがもたらしたインパクトのうち「コンテンツを誰でも作れるようになったこと」はほんのきっかけに過ぎないだろうと思っている。話を文章コンテンツに絞ると、LLMの本当のインパクトっていうのは、むしろ「文章を読むのがやたらに得意」というLLMの性質から生まれてくるはずだ。言い換えるとぼくは、LLMの本当のインパクトは「われわれ人間が入力する文章を読むのが人間に限られなくなったこと」にあると考えている。
もちろんこれまでも、誰に読ませるつもりもなく自分のためだけに文章を書いている人はいた。それこそ日記などは誰かに読んでもらうために書く文章でもないだろう。異界の存在と交流する人や、SNSでボットと真剣に「対話」する人もいた。しかし通常、ほとんどの場合、人間が書く文章の読み手として暗黙に想定していたのは人間だっただろう。非人間、とくに機械に読ませるために書くものは、文章というよりはコードだった。
ところがLLMが存在しているいま、人間が書く文章の読み手はもはや人間だけではない。それどころか、自分がコンピューターで入力している文章のほとんどが読み手としてLLMを想定したものになっている人も少なくないはずだ。いまや人間は、人間に読まれる可能性をまったく想定せずに、日常的に文章を書き散らかしているのである。
ここで「書き散らかしている」という表現を使ったのは、言葉のあやでもなんでもない。人間以上に読むのがうまいLLMに渡す文章なら、ちゃんと書かなくてもよく、文字通りに書き散らかせる。人間に読まれる可能性がある文章ではそうはいかない。人間は全般的にそれほど文章を読むのがうまくないからだ。人間が文章をちゃんと読めるようになるには、かなりの訓練を要する。書き手がどんなに言葉を尽くして文章を書いても、それだけで誰もが「読める」とは限らないのである。
一方でLLMは、あらゆる文章を「読む」訓練ができている。というか、そういう訓練を終えた学習済みモデルである。だから、どんなに難しい文章でも、どんなに変な文章でも、読める。言葉足らずでも、なんなら非文でも、単語が並んでいれば「文意」らしきものを見つけられる。そんなLLMが読み手なら、書き手が文章を練り上げる必要はない。本当は練り上げた文章のほうがコンテキストを節約できていいとか、そういうのはあるかもしれないが、そういう方向で頑張るのは作文というよりもプログラミングに近いのではないだろうか。少なくとも、その結果は人間にとって読みやすい文章とはまた違ったものになるように思う。それなりに共通点はあるような気もするけれど、このへんはまだよくわかってない。
LLMという読み手には編集がいらない
話を戻すと、LLMが文章コンテンツにもたらした最大のインパクトは、「必ずしも文章を読む訓練をつんでいるわけではない人間向けではない文章」の価値を爆上がりさせたことだろうと自分は考えている。つまり、ちゃんと書かれていない文章が、LLMに読ませるという前提で、人間にとっても潜在的な価値が見出せるコンテンツになった。
これがコンピューター技術書のような文脈でどういう意味を持つのかは、わりと自明だろう。
LLM以前には、著者の知見やアイデアを読み手のために編集することが付加価値であり、それが出版社の意義のひとつでもあった。なるべく多くの読み手に受け入れられやすい文章の型のようなものがあり、それに合わせて原稿を調整できることが、編集者にとって必須のスキルであった*1。
しかし読み手がLLMなら、どんな原稿でも、いい感じに文意を汲み取ってくれる。少なくとも人間の読み手を意識した編集はいらない。読み手が人間のつもりで書かれた文章であっても、最近ではLLMに要約させて読ませる人が多いだろう。どうせLLMで要約するなら、やっぱりこれまでのように編集という手間をかける必要はないように思える。
要するにこういうことだ。文章コンテンツにとってのLLMは、編集がいらない訓練された読み手である。LLMという読み手にとって、文章の表現力や読みやすさはあまり意味がない。LLMという読み手の前では、人間がLLMを想定して書き散らかした文章未満の文字列も、LLM自身が生成した中身を薄めた長文も、プロの編集者が丁寧に編集した文章コンテンツも、たぶん同じような価値しかない。
人間が読み手であることをやめるまでは
LLMを読み手として想定する限り、従来の編集はいらなくなる。人間を読み手として想定していても、読み手がLLMで要約することが想定されるなら、やはり従来の編集はいらないように思える。それでも人間を読み手として想定するならちゃんと編集しろ、むしろちゃんと編集せずに読みにくい状態で世の中に出すから読み手がLLMで要約したくなるんだろうが、というもっともな意見が目に浮かぶのだが、便利なものがあったら使いたくなるのが人情だし、とにかく文章を読むというのは人間にとっては苦痛なので、読み手が「この内容ならLLMに渡して要約すれば十分だな」と感じる文章コンテンツは、どんなにちゃんと編集されていてもじゃんじゃんLLMで要約されるのがおちだと思う。
結局のところ、これからも人間が文章を読むとしたら、それは読む行為そのものを人間が楽しむような文章コンテンツか、読む行為そのものをしたい人間が文章を読む場合だけになっていくのだと思う。これはコーディングエージェントの興隆から類推しても、わりと確定した未来なんじゃないだろうか。どんなにコードを書くのが楽しくたって、人々がエージェントに書かせるという流れには逆らえなかったように、文章を読むことも、権利面などがクリアにされていくにつれ、どんどんLLMまかせになっていくだろう。
ただし、ぼくは「もう技術解説なら編集なしで世に出してしまえばいいじゃないか」と思っているわけでもない。読む行為そのものを人間に楽しんでもらうための文章コンテンツに対しては、読み手がLLMを使おうが使うまいが、人間のための編集をやめてしまうわけにいかない。そういう文章コンテンツは、文芸だけでなくコンピューター技術書にもある。LLMなら文章をトークン化してなんかすごい次元のベクトルをうねうねすることで「理解」できるのかもしれないが、人間が文章で書かれた知見を「理解」するためには、それなりに時間をかけて丁寧に読むという体験が必要になる。これはうちらが人間の脳を思考に使わないことにするまでは必要なコストに思えるし、そのコストを下げるのが編集という仕事だろう。
商売は厳しく
というわけで、文章コンテンツに対する編集が無駄な存在になったわけではないとは思っているのだが、かといってそれで編集者や出版社が生き残れるかとなると、現時点ではいくつかの理由でネガティブな気持ちが強い。
なにより理由として大きいのは、単純に経済合理性の観点である。これまで編集が商売になってきたのは、読み手が人間しかいなくて、その読み手のために最低限の編集が必要だったからだ。読み手があらゆる文章をLLMで要約するようになり、さらにはLLMしか読まない文章の割合が増えるにつれて、編集が求められる機会は減っていくだろう。LLMという読み手の存在によって文章の消費スピードが桁違いになっていることも、経済合理性にとっては都合が悪い。人間のための編集は、LLMによる生成のようにはスケールしない作業なのだ。
もう1つ言えることとして、人間のための編集をLLMで自動化するのは無理そうという直感がある*2。おそらく人間の読み手のための編集には、文章の滑らかさとは異なる、一定の価値を満たす必要がある。そのような深層学習モデルが誕生する未来もありうるが、少なくとも現在のLLMはそれではない。編集の自動化に使えるAIができるまでは、人間が既存の仕組みを使いながら読んで編集をするしかないように思える。
だから結局、AI時代のコンピューター技術書とは何かと問われたら、答えは「人間が読む気になる文章コンテンツを人間の読み手のために編集した本」ということになるのだろう。
でも、それって従来のコンピューター技術書と同じじゃないの?
同じなんだけど、置かれている環境が違う。従来のコンピューター技術書は、読む気がない人でも買ってくれる可能性があった。AI時代のコンピューター技術書は、自ら文章コンテンツを読む気がある人しか買わない。たとえ読み手がLLMを使えても、求められる編集は従来と変わらないので、そのためのコストが下がることはない。
コストは変わらないのに買ってくれる人は減るので、出版社は何か手を打たないとまずいだろう。しかしどんな手が打てるというのだろうか。