編集者は「日本語を直す」機会が多い仕事である。 しかし文章というものは内容、つまり「何を言いたいか」だけで成立するものではないので、表現、つまり「どう言いたいか」も尊重する必要がある。 やみくもに内容が正しい別の表現で書き換えていいわけではない。
それでもわれわれは日本語を直す。 そして「直す」と言うからには、そこに何かしら解消が必要な課題を見ている。
編集者は、原稿のどのような状態を「課題」として認識するのだろうか。 人によって違いはあるだろうけど、ぼくの方針は「下記のような印象を想定読者にもたらしうる部分が原稿に残らないことを目指す」だと言える。
- この書き方だと読み手に不要な時間を割かせてしまいそうだなあ
- この書き方だと読み手が挫折しそうだなあ
- この書き方だと勘違いされそうだなあ
上記のような印象を読み手が抱かないようにするために何をするかというと、文意を保存した変換を作成する。 文体とか語り口も、できるだけ維持する(ただし読み手にとって益がない修辞を回避したり、いわゆるトンマナを整えたりはする)。 その変換結果を修正案として執筆者に確認してもらい、それをたたき台にしてさらに書き直してもらったり、それでよければ取り込んでもらったりする。
もちろん、文意を保存した変換を作るからには、ぼく自身が文意を読み取れなければならない。 いちおう編集者である自分に文意が取れないとしたら、対象読者の多くにとっても読み解くのが厄介な文章ということになるので、説明の仕方から再考してもらうべきだろう。 そのように主張したり、そもそも文意を保存した変換を作ったりするためには、自分の前提知識を「対象読者の底辺と同じ程度」にまで引き上げる必要があるので、そこはがんばる。
ここからが本題だ。 ぼくは、こうやって執筆者と編集者とで揉んだ文章がはじめて「商業品質の日本語」になりうると考えている。 言い換えると、原稿の文意の理解を諦めて表面的な日本語としてのそれっぽさを整える作業によっては、商業品質の日本語は実現できないだろうと考えている。
逆に、出版物が商業品質の日本語になっているかどうかは、文意の伝わり具合によって評価できると思っている。 「文意の伝わり具合」を評価する指標としては、たとえば下記のようなバロメーターが使えるだろう(数字が大きいほど高評価)。
- 文意を読み解けない
- わかっている人が読めば文意が察せれる
- わかっている人が読めば誤読しない
- 何度か読み返して文意を察せられる人がそれなりにいる
- 読み流して文意を察せられる人がそれなりにいる
- 読み流しても誤読しにくい
少なくとも専門書では、商業品質の日本語の最低条件は上記の「3」だと思う。 そして著者と編集者には、上記の「5」以上を目指して推敲することが求められると思う。