golden-luckyの日記

ツイッターより長くなるやつ

マークアップ言語における記法とは何かって、確かに定義が必要だった。

ここで取り沙汰されている記事を書いてるときは、「構造およびレイアウトの指定に使うメタ情報」、もしくは、それだけだとWordのスタイルとかも「記法」になってしまうので、「テキストベースの文書データで文書の構造およびレイアウトの指定などに使うメタ情報のシンタックス」だと思ってもらえることを期待してたんだけど、これって実際のところ、ぜんぜん自明じゃないな。

コンピュータを使うにせよ使わないにせよ、印刷して人にみせられる文書を著す場合、そのための版を作るという作業が必要になる。 「印刷して人にみせられる文書」の定義は、現代では非常にめんどくさいので、このへんは適当に解釈してください。たとえば、ブラウザでのレンダリングであっても用語は違うけど同じことです。

で、文書というものは、いろんな役割の部分から構成されている。たとえば、本文段落というのも、そのような役割のひとつ。もちろん、見出しとかもそう。

紙に人間が手書きした状態を読むときは、そうした文書の各部の役割を、読み手が誤読しない規範的な見せ方として書き手自身でハードコードする必要がある。 小学校で「段落の先頭は一文字開けましょう」とか習うのは、これ。 行頭一字下げというのは、和文における伝統的な段落組版ではない。和文における伝統的な段落のためのハードコード方法ならいえる(江戸しぐさが日本の伝統である的な意味で)。

というわけで、手で文書を著すときは、紙にどんな文字をどんな見た目で配置すれば文書の各部の役割を誤解なく読み手に解釈してもらえるか、っていうスキルを書き手が意識する必要がある。 しかし、少なくともグーテンベルクからこっち、書き手自身による見せ方の工夫として文書の各部の役割をハードコードするしかないという状況ではなくなった。 そのかわり、「文書のこの部分の役割は本文段落です」といった情報を文書そのものに付随して明示して、その付随された情報をもとに、誤解のない見せ方であったり魅力的な見せ方であったりを専門家が考慮できるようになり、さらにはコンピュータで解釈して一定の見え方を決定できたりするようになった。 この付随情報を示すルールのことを、もとの記事では「記法」と言ってます。

こう考えると、コンピュータで文書を書くときに「記法」が問題になるのは、常に印刷する前提で文書を書いてるから、という面もありそう(ここで印刷というのは、プリンタから紙を出すことだけじゃないです、念のため)。

ここで、本文段落という役割をもつ部分をコンピュータで書くときの「記法」について想いを馳せると、だいたいこんなのが主流になってると思う。

  1. 行頭から空行までの文字列
  2. 行頭から改行までの文字列
  3. <p>という記号列から、一定の規則を満たす状態まで
  4. <p>という記号列と</p>という記号列で挟まれた文字列

などなど。

1つめは、MarkdownとかTeXとかで広く採用されているおなじみのやつで、ふだんは記法だと意識してないかもしれないけど、記法です。 念のため注意しておくと、これは、欧文組版で行間スペースだけで段落としている場合がある、という事実とはまったく関係ない。 そういう組み方の例があるからこそ書き手の直観と一致する記法として広く採用されるに至った、みたいなストーリーがあったりするのかもしれないけど、知らない。

2つめは、テキストデータにおける1行を1つの本文段落とみなす記法で、DTP工程への指示として出版業界ではよく使われている。 この場合、空行は段落より大きな意味上の区切りを終端するための記法とみなされることが多い。 このように1行1本文段落の記法が使われているのは、DTPアプリケーションに流し込むときに空行があるとハード空行になってしまうから、という実務的な事情が大きいと思う。 行頭に全角スペースを入れたがる編集者もいるかもしれませんが、DTP工程では嫌がられてると思うので、やめようね。

3つめと4つめは、いうまでもなくHTMLですね。整形式でないHTMLをわざわざ別建ての項にしたのは、構造の話ではなくあくまでも記法の話だというのを強調するため。

ここまで考えて、ZRさんの疑問を基にしているsky_yさんのこの記事が、ZRさんの疑問とはちょっと違う話題になってしまっているな、と気づいた。

note.solarsolfa.net

ZRさんは、「複数の段落に役割を持たせ、そのための記法にハード空行を使っている文書」について考えていて、「そういう構造を利用して文書を書いている人が、ハード空行が段落区切りにしかならない一般的なMarkdown方言の処理系を使うと、戸惑いそう」という話をしてたんだとおもう。 それに対して、sky_yさんの記事は段落をハードコードする流儀の話になってしまっている。

このような話でこういう齟齬が生じてしまうのも、そこそこ直観に合致するハードコードで文書の役割を明示する記法であるところのMarkdownにとって避けられない暗黒面のひとつなのかもなあ。

note.mu

言いたいことは、すごくよくわかる。でも、残念ながら、「読まれるテキストとは、読み飛ばせるテキストである」というのが圧倒的に正しい。だから、「読まれるテキスト」を考えるなら、元記事のように、「読み飛ばせるテキストにするにはどうするか」っていうのをスタートにしたほうがいいとおもう。

読み飛ばせるテキスト、ぜんぜん悪いものじゃないよ。読み飛ばすような内容もないのが、悪いテキスト。ちなみに、内容がないけど読み飛ばせないテキストっていうのが最高ですね。

そもそも、段落をちゃんと構成しなきゃいけないのは「読み飛ばせる」ようにするためだ。そういう構成ができているテキストを読むっていうのは、情報を取り入れるための最速な手段だといえる。

「あ、これ、ちゃんと分かりたいし、ちゃんと読まないと絶対に分からないやつだ」という人は、読み飛ばしたあと、読みなおしてくれる。だから、そのときに困らないような丁寧な文章も、読み飛ばせる構造の中に用意しておく必要がある。文芸書や詩文なら話はべつだけど、おれらが一生懸命に文章を書いたり直したりしてるのは、そうやって気持ちよく読み飛ばしてもらい、それでもなお、だれかに話を聞いてもらうためなんだとおもってる。

blog.jnito.com

同書の制作の舞台裏がとてもよく伝わってくる、すばらしい記事だった。 すごくよくまとまっているので、未読だけど書籍本体もしっかり書かれているのだろうなと感じた。

で、制作の舞台裏があまりにも伝わりすぎたので、おれにもひとこと言わせてという気持ちが抑えられず、2点だけ突っ込ませてほしい。


まず、「紙の本の制作は完全にウォーターフォール」という文字列を見て、どうしようもなくアンビバレントな感傷に飲み込まれてしまった。 というのも、まさに「おれたちの紙の本づくりはウォーターフォールではない」という発表を、いまを遡ることちょうど10年前にしていたから。

www.slideshare.net

あれから10年間、それなりに商業的にも成功するタイトルをイテレーティブかつインクリメンタルに作ってきたつもりだし、ほかにもこういうスタイルの紙の本づくりを実践するところは出てきているし、なので、やはりこれは「紙の本」全般の話として受け取られたくないなという強い気持ちがある。

で、ソフトウェア開発においてウォーターフォールがぜったいダメでないように、紙の本もウォーターフォールではダメというわけではなくて、同書の制作で採用された従来型の制作方式でうまくまわす方法というのも当然ある。 それはもちろん、前工程への手戻りを最小化することで、紙の本づくりでいえば「とりあえず組んで赤字を入れよう」という甘えをDTPに回す前の原稿整理と推敲の工程で完全に殺すことなんだけど、まあ、そういう感じでストイックにウォーターフォールできてるところはあまりないんだよな……。 だから、ウォーターフォールの是非というより、DTPの人(編集の人じゃない)に泣いてもらうというソリューションの擬似スパイラルモデルが紙の本づくりの実体になっているというのが同記事から見えてきて、ちょっとうっていう気持ちになった。 完成する本が読者にとってよくなることを目指すのが制作では至上目標だし、組版された初校ゲラで推敲するのが現場では日常風景になってるけど、やっぱそれは悪いウォーターフォールなんで、ウォーターフォールするなら良いウォーターフォールを目指すべきだよなと思う。


もう1つアンビバレントなのは索引まわりの話で、索引って、著者がひくのが前提なのだっけ? というのは、べつに煽ってるわけじゃなくて、むかしむかし編集者として索引について記事を書いたときに「索引はできれば著者にも手伝ってもらおう」というような提案をしたら「編集者の仕事だろが」というツッコミを受けた経験があって、それでちょっと宇宙ネコになった。

note.golden-lucky.net

いや索引ってまじで編集作業そのものでもあるから、編集者もゲラにする前に項目ピックアップやったほうがいいよ。 索引項目のピックアップがいかに編集の精度向上に役立つかについては、また我田引水だけど、これにくわしい(前半は世界の索引紹介みたいな感じなんで、スライドは37枚目あたりからが本題っす)。

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古き良き雑誌とか新聞の、あのいろんな情報が平面全体をつかって構成されているレイアウトって、読み手に情報を「捨てさせる」うえで効果的なのかもしれないなあ。もちろん作ってる側は「見てほしい」部分を生かすように工夫してるには違いないんだけど、それってつまり消化しづらい部分を「読者がスルーしやすい状態」に追いやっていることでもあるわけで、だとすると、結果的に読み手は、消化しやすい情報ばかりを無意識に取り出してしまうことになる。見せたい部分をうまく見せる技術としての編集で、消化しづらい情報をかみ砕いて提供する技術としての編集を、代替しないようにしたい。

名が知れている人であれば出版社を使わずに自分で印刷製本して流通させたほう儲かるかもよという記事(もはや出版社より同人誌のほうがいい時代じゃないですかねっていう|yuukee|note)があって、人やジャンルによってはもちろんそうだよね、西野氏の話が引き合いに出されてるから、そういうジャンル(どういうジャンル)の本だと特にそういう傾向あるよねと思って読んでたら、なんと「技術書とかハウツー本」が想定されていたらしく、まさにその技術書というジャンルで、これは西野氏がやったような無料公開みたいなのが数十年前から事例としてあったようなジャンルで、そのジャンルで出版社(編集者じゃないよ)をやっている身としては、おまえいま「技術書とか」って適当に言ったろ、という気持ちになりました。

そこそこの出版社で3000部とか印刷してすぐに重版がかかる本は、3000部がぜんぶ売れたから重版するんじゃなくて、市中在庫で1000部とかは少なくとも必要なのを見越して重版するんです。書店流通が中心のモデルだと、生きていて売れ行きが好調な本ほど市中在庫を意識しないといけなくなる。Amazonで品切れになっちゃてみんながわーってなるのは、みんなAmazonで買うけど、書店の市中在庫Amazonにまわすわけにはいかないから。あとはわかりますよね。

もちろん、技術書というのは電子書籍も動くジャンルだし、それを含めてトータルで3000人の個人がお客さんになってくれるだけの知名度をもつ著者はいるけど、それでも紙の本を3000人の個人に届けるという仕事は、実際にそういう出版社をやっているわけだけど、やっぱり大変だなあという感情しかない。大変です。大変だから、アマゾンや取次が4割を持っていくけど、ほとんどの出版社はみんなそうやって本を売っている。まじめに広報が機能してない出版社があるという話と(あります)、出版社の編集者に話がわからないやつがいるという話と(います)、執筆者が自分で流通までできるよという話と(できます)、それらが1つの記事にまざっていて結論っぽいものが導出されているので、少なくとも部数についてはあんまり真に受けてしまう人が増えないでほしいなあ。

全国の書店でわりとコアな技術に関する本や専門家向けの本が買えるっていう日本の状況は、マジですごい。マジですごいんだけど、それってもしかすると、コンビニやスーパーマーケットの接客で来店者を神様扱いしてしまうのと根っこの部分では似ていなくもないのかなと思うことがある。本に触れてその場で購入できる機会は、どの書店でも同一に得られるべき、という意味で。実際、利用可能な書店が限られている人のほうが多いのは真だし、その人にとって利用可能な書店にない本は存在しないも同然なのも真だし、存在しない本には価値がない。だから全国の書店には、少なくとも日本語で書かれたすべての本が置いてあって、誰もが自分にとって必要な本を探せることが望ましいのは間違いない。もちろん、そんなことは無理なんだけど。無理だから、どこかでだれかが「書店に置く本」を決める。もしかすると、この「書店に置く本」を決めるプロセスには改善の余地があるんじゃないかなあ、と思ってみたりしている。もちろんポジショントークです。

これを読んで思い出したのだけど、ぼくもずっと同じことを言っていたのだった。少なくとも2010年には。

この話はもう少し掘り下げたいので、そのうち書く。

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