golden-luckyの日記

ツイッターより長くなるやつ

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同書の制作の舞台裏がとてもよく伝わってくる、すばらしい記事だった。 すごくよくまとまっているので、未読だけど書籍本体もしっかり書かれているのだろうなと感じた。

で、制作の舞台裏があまりにも伝わりすぎたので、おれにもひとこと言わせてという気持ちが抑えられず、2点だけ突っ込ませてほしい。


まず、「紙の本の制作は完全にウォーターフォール」という文字列を見て、どうしようもなくアンビバレントな感傷に飲み込まれてしまった。 というのも、まさに「おれたちの紙の本づくりはウォーターフォールではない」という発表を、いまを遡ることちょうど10年前にしていたから。

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あれから10年間、それなりに商業的にも成功するタイトルをイテレーティブかつインクリメンタルに作ってきたつもりだし、ほかにもこういうスタイルの紙の本づくりを実践するところは出てきているし、なので、やはりこれは「紙の本」全般の話として受け取られたくないなという強い気持ちがある。

で、ソフトウェア開発においてウォーターフォールがぜったいダメでないように、紙の本もウォーターフォールではダメというわけではなくて、同書の制作で採用された従来型の制作方式でうまくまわす方法というのも当然ある。 それはもちろん、前工程への手戻りを最小化することで、紙の本づくりでいえば「とりあえず組んで赤字を入れよう」という甘えをDTPに回す前の原稿整理と推敲の工程で完全に殺すことなんだけど、まあ、そういう感じでストイックにウォーターフォールできてるところはあまりないんだよな……。 だから、ウォーターフォールの是非というより、DTPの人(編集の人じゃない)に泣いてもらうというソリューションの擬似スパイラルモデルが紙の本づくりの実体になっているというのが同記事から見えてきて、ちょっとうっていう気持ちになった。 完成する本が読者にとってよくなることを目指すのが制作では至上目標だし、組版された初校ゲラで推敲するのが現場では日常風景になってるけど、やっぱそれは悪いウォーターフォールなんで、ウォーターフォールするなら良いウォーターフォールを目指すべきだよなと思う。


もう1つアンビバレントなのは索引まわりの話で、索引って、著者がひくのが前提なのだっけ? というのは、べつに煽ってるわけじゃなくて、むかしむかし編集者として索引について記事を書いたときに「索引はできれば著者にも手伝ってもらおう」というような提案をしたら「編集者の仕事だろが」というツッコミを受けた経験があって、それでちょっと宇宙ネコになった。

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いや索引ってまじで編集作業そのものでもあるから、編集者もゲラにする前に項目ピックアップやったほうがいいよ。 索引項目のピックアップがいかに編集の精度向上に役立つかについては、また我田引水だけど、これにくわしい(前半は世界の索引紹介みたいな感じなんで、スライドは37枚目あたりからが本題っす)。

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古き良き雑誌とか新聞の、あのいろんな情報が平面全体をつかって構成されているレイアウトって、読み手に情報を「捨てさせる」うえで効果的なのかもしれないなあ。もちろん作ってる側は「見てほしい」部分を生かすように工夫してるには違いないんだけど、それってつまり消化しづらい部分を「読者がスルーしやすい状態」に追いやっていることでもあるわけで、だとすると、結果的に読み手は、消化しやすい情報ばかりを無意識に取り出してしまうことになる。見せたい部分をうまく見せる技術としての編集で、消化しづらい情報をかみ砕いて提供する技術としての編集を、代替しないようにしたい。

名が知れている人であれば出版社を使わずに自分で印刷製本して流通させたほう儲かるかもよという記事(もはや出版社より同人誌のほうがいい時代じゃないですかねっていう|yuukee|note)があって、人やジャンルによってはもちろんそうだよね、西野氏の話が引き合いに出されてるから、そういうジャンル(どういうジャンル)の本だと特にそういう傾向あるよねと思って読んでたら、なんと「技術書とかハウツー本」が想定されていたらしく、まさにその技術書というジャンルで、これは西野氏がやったような無料公開みたいなのが数十年前から事例としてあったようなジャンルで、そのジャンルで出版社(編集者じゃないよ)をやっている身としては、おまえいま「技術書とか」って適当に言ったろ、という気持ちになりました。

そこそこの出版社で3000部とか印刷してすぐに重版がかかる本は、3000部がぜんぶ売れたから重版するんじゃなくて、市中在庫で1000部とかは少なくとも必要なのを見越して重版するんです。書店流通が中心のモデルだと、生きていて売れ行きが好調な本ほど市中在庫を意識しないといけなくなる。Amazonで品切れになっちゃてみんながわーってなるのは、みんなAmazonで買うけど、書店の市中在庫Amazonにまわすわけにはいかないから。あとはわかりますよね。

もちろん、技術書というのは電子書籍も動くジャンルだし、それを含めてトータルで3000人の個人がお客さんになってくれるだけの知名度をもつ著者はいるけど、それでも紙の本を3000人の個人に届けるという仕事は、実際にそういう出版社をやっているわけだけど、やっぱり大変だなあという感情しかない。大変です。大変だから、アマゾンや取次が4割を持っていくけど、ほとんどの出版社はみんなそうやって本を売っている。まじめに広報が機能してない出版社があるという話と(あります)、出版社の編集者に話がわからないやつがいるという話と(います)、執筆者が自分で流通までできるよという話と(できます)、それらが1つの記事にまざっていて結論っぽいものが導出されているので、少なくとも部数についてはあんまり真に受けてしまう人が増えないでほしいなあ。

全国の書店でわりとコアな技術に関する本や専門家向けの本が買えるっていう日本の状況は、マジですごい。マジですごいんだけど、それってもしかすると、コンビニやスーパーマーケットの接客で来店者を神様扱いしてしまうのと根っこの部分では似ていなくもないのかなと思うことがある。本に触れてその場で購入できる機会は、どの書店でも同一に得られるべき、という意味で。実際、利用可能な書店が限られている人のほうが多いのは真だし、その人にとって利用可能な書店にない本は存在しないも同然なのも真だし、存在しない本には価値がない。だから全国の書店には、少なくとも日本語で書かれたすべての本が置いてあって、誰もが自分にとって必要な本を探せることが望ましいのは間違いない。もちろん、そんなことは無理なんだけど。無理だから、どこかでだれかが「書店に置く本」を決める。もしかすると、この「書店に置く本」を決めるプロセスには改善の余地があるんじゃないかなあ、と思ってみたりしている。もちろんポジショントークです。

これを読んで思い出したのだけど、ぼくもずっと同じことを言っていたのだった。少なくとも2010年には。

この話はもう少し掘り下げたいので、そのうち書く。

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ある出版社が電子書籍の直販サービスを一方的に打ち切るというニュースが今日あり、自分は前にその出版社で編集者をしていて、打ち切られることになった電子書籍の直販サービスにもわりと近いところにいたし、たぶんぼくが作ったいた本は、その電子書籍の直販サービスでいまだにとてもよく売れているはずで、それなのにどうやら著者や訳者に一切の連絡もなく打ち切られたらしく、まあ、一カ月前にくだんの直販サービスを立ち上げたぼくの先輩であるフルスタック編集者がやめたことを考えると、遅かれ早かれこうなるのは目に見えていたので、このニュース自体にまったく驚きはなかったんだけど、こうやってその日がくると、あのときの編集チームを社内政治にからめてつぶした人たちにはほんとうにあきれるし、当時のポジティブな気持ちとか、誇らしさとか、楽しさとか、そういうのを思い出してしょっと憤慨するし、でも、こうしてぼくは自分で編集チームをまた持って、本を作り、売っているのです。

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